~ Traditional Karate blog~

田舎での暮らしや思いを書いている老いぼれです。 また、H・李小龍北海道倶楽部・Kと日本IUMAに所属しマニアックなことや技術的鍛錬で人生を楽しむ日々です。 芦原空手(四国修行時代)や日々修行の溜め込んだ秘蔵映像を発信していきます。

たまげた・・・



まだ、芦原英幸館長に会う前の時代でしたが北海道へ巨大組織が上陸するニュースがNHK放送で飛び交い地元組長さんがうちの若い衆を強くして欲しいので宜しく頼みますと自ら一緒に空手稽古した時代がありました。
我々は黒帯、茶帯、色帯締め、若い衆は当たり前ですが全員白帯でした。
真っ白い空手衣の胸元や肩や腕にはみごとに鮮やかな牡丹、龍、虎、鯉等の刺青がはみ出し、パンチ、角刈り、サングラス、尖がった眉に髭、白い腹巻に雪駄の集団。
当時は、決して後ろを見せてはいけない、前へ出ろと云う指導法でしたので相手が誰であろうが立ち向かう稽古は続きました。
社会人も学生さんも中高生も白バイ警官も日々、先輩達は道場から遠ざかって行きました。
最初の組員さんは4~6名でしたが3ヶ月も保たなかったのです。
やがて、一般道場生や先輩達も戻り賑やかに稽古する間もなく、次は別派閥の組員さんが40~50名毎週やって来ました。
毎週3回の稽古は基本、組手、サンドバック、組手、体力運動、組手とバッタバタと怪我する暇もないほど、強烈な虎の穴的稽古でした。
若い衆の空手は攻めて来るか、逃げ惑うかの二通りしか出来なかった様です。
当時の組手は、殆どがケンカ殺法で顔面と金的は禁止だよ!それ以外は何でもいいと云いながら道場の師範が持つ竹刀で残り1分だ!やれっ!倒せ!と背中や腕を竹刀で叩く合図でスィッチが入ると目の前の相手を何が何でもぶっ倒すやり方でした・・・例え目を潰そうが髪を引っ張ろうが倒しても何度も起こしては倒し、顔面踏みつけて後頭部を床に打ち付けても参りましたと降参するまで無我夢中でした。
当然、受け方なんて教える訳でもなく、受け崩すと云う技術は殆ど存在しませんでした。
そんな時代もやがて誰もついてこれず、1~2年は続いたものの体育館へ出入りする白い外車、パンチパーマ、サングラス、腹巻に雪駄の姿は教育委員会まで噂が届いて追い出される始末でした。
親分さんや若頭さん等は礼儀正しく一人一人に稽古の始まりと終わりには深々と礼をされていましたが、若い衆は基本稽古中にトイレへ逃げ込み、組手の時間になるとトイレで喫煙しながら出てきませんでした。
親分さん等はいつも、嘆いて居られました。

そんな時代は、やがて過ぎ行くものです。
芦原英幸館長には、お前等そんな時代錯誤したことやりおるん?たまげた飽きられました。
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鍛練は続く・・・